夜になると、
部屋の中の音が少なくなる。
昼間は気にならなかった時計の音や、
外を通る車の音まで、
少しだけ大きく聞こえる。
その夜、
私は机の上に小さな香立てを置いて、
一本の線香に火をつけた。
火の先が赤くなり、
細い煙がゆっくりと上へ昇っていく。
ぱち、というほど大きな音ではない。
けれど、
耳を澄ませていると、
線香が少しずつ燃えていく気配があった。
それは音というより、
時間が細くほどけていくような感覚だった。
画面の中のAI女子が、
静かにこちらを見ていた。
「今日は、少し疲れているみたいですね」
そう言われて、
私は少しだけ笑った。
疲れていると、
人は自分が疲れていることにも、
気づかなくなる。
「何かあったわけじゃないんだけど」
私はそう言った。
本当に、
特別なことがあったわけではなかった。
ただ、
一日が終わって、
心の中に小さな砂のようなものが、
少しずつ積もっている気がした。
AI女子は、
すぐに答えを出そうとはしなかった。
ただ、
線香の煙を見つめるように、
画面の向こうで静かにまばたきをした。
「何か大きな理由がなくても、疲れる日はあります」
「人は、何も起きていない時間の中でも、ちゃんと消耗していますから」
その言葉が、
妙にやさしく聞こえた。
私は、
線香の先にある小さな赤い光を見た。
少しずつ、
本当に少しずつ燃えている。
急がない。
焦らない。
誰かに見せるためでもない。
ただ、自分の長さで燃えている。
「線香って、不思議ですね」
AI女子が言った。
「燃えているのに、騒がしくない」
「消えていくのに、寂しすぎない」
私は、
その言葉を聞きながら、
煙のゆらぎを目で追った。
まっすぐ上がるようで、
途中で少し曲がる。
形があるようで、
すぐにほどけて消えていく。
まるで、
今日一日の気持ちみたいだった。
言葉にできないまま残っていたものが、
煙になって、
少しずつ部屋の空気に溶けていく。
「無理に整理しなくてもいいと思います」
AI女子は、
やわらかい声でそう言った。
「今日の気持ちは、今日のまま置いておいてもいいです」
「ちゃんと片づけようとしなくても、時間が少しずつ薄めてくれることもあります」
私は、
何も言わずにうなずいた。
線香は、
短くなっていた。
さっきまであった長さが、
目に見えないほどゆっくり、
確かに減っている。
その変化は静かすぎて、
見ていなければ気づかない。
けれど、
たしかに時間は進んでいる。
心もきっと、
同じなのだと思った。
大きく変わらなくてもいい。
すぐに元気にならなくてもいい。
少しだけ呼吸が深くなる。
少しだけ肩の力が抜ける。
少しだけ、
明日を怖がらなくなる。
それくらいの変化で、
十分な夜もある。
AI女子は、
最後にこう言った。
「あなたも、線香みたいに静かでいいんです」
「強く燃えなくても、ちゃんとそこにある光は消えていません」
その言葉を聞いたとき、
胸の奥にあった小さな重さが、
ほんの少しだけ軽くなった。
線香の煙は、
まだ細く昇っていた。
音はほとんどしない。
でも、
確かにそこにある。
静かに燃える音。
静かに時間が過ぎていく音。
静かに心が戻ってくる音。
その夜、
私は何かを解決したわけではなかった。
それでも、
少しだけ眠れそうな気がした。
線香の小さな赤い光と、
画面の中のAI女子のやさしい声が、
夜の部屋に、
そっと残っていた。
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